Brionglóid
海賊と偽りの姫
海港都市ヴェスキア
15
「セニョリータ! 君みたいな素敵な客人を俺達の船に迎えられるなんて、こんな光栄なことはないな!」
甲板に上がってきたライラ達を出迎えたのは、人魚号の航海長による熱烈な歓迎だった。
思わぬ先制攻撃を食らったライラはその場に硬直した。
「既に一回来てるじゃないか」
白けきったバートレットの呟きも何のその、ファビオは唖然としているライラの手をやや強引に取ると、船長室に誘導した。
「さあ、早く中へ! この船の船長室を見たらきっと驚くぞ。もちろん、君のような女性を招くにふさわしい場所だ」
「はあ……」
すっかり圧倒されたライラは、なされるがままである。
実際には、戦闘時の破損こそ応急処置的に修繕したものの、焼け落ちた帆などはまだ替えを手配中だったし、角灯に照らされた甲板はあちこち焦げている部分も見受けられた。
しかし、ファビオの態度だけ見れば、まるで大邸宅に招かれたかのような錯覚さえしかけるのだから不思議なものだった。
ファビオが扉を開いた先には、大層綺羅びやかな部屋がひろがっている。
正面奥には入り口に向いた形で船長用の机があり、その手前右側にあるのは寝台にもなる長椅子だ。反対側には書棚と鍵付きの所持品箱がある。
部屋の手前側が接客用なのは、カリス=アグライア号と一緒らしい。
複雑な模様が織り込まれた絨毯が敷かれ、その上に惜しげもなく胡桃材のどっしりとした長卓が置かれている。その両脇に並ぶ椅子は計八脚あった。急の連絡だったからか、銀食器が空のまま卓上に設置されていた。
食卓を挟むようにして、右の壁には帆船とエスプランドルの国章を意匠にした大きな織物が、左の壁にはエステーべ教の聖人の像が掛けてある。
その全てを、天井から下がる真鍮製の大きな燭台が照らし出していた。その燭台も蜜蝋を何十本と使った豪華なものだ。おそらく停泊中の来客時にのみ使用するものだろうが、それにしても贅沢な空間である。
質素極まりないカリス=アグライア号とは、比べるのも馬鹿馬鹿しい程だった。
「ああ、こんな美しい人と一緒に晩餐だなんて、俺は世界一幸運な男だな。君が衣装を着ていたら最高だったが、その凛々しい格好も似合ってる。俺のためにあの味気ない水夫服から着替えてくれたって、自惚れてもいいかい?」
「……」
怯えたような顔のライラに助けを求める目線を送られ、バートレットは深く嘆息した。
「茶番はその辺にしておいてくれませんか。こちらの事情は伝わっているはずですが」
「そういえば君も一緒だったな、番犬君。これは失敬した」
バートレットの刺すような冷たい眼差しもにやりと笑ってかわし、ファビオは食卓に設置された椅子のひとつを引いた。床と椅子の脚をつなぐ短い鎖が微かに音を立てる。
「さあどうぞ、セニョリータ。申し訳ないが、料理がまだ準備できてないんだ。果実酒でも飲んでゆっくり待とう。夜は長い」
素直に従うべきか立ち尽くして悩むライラを、バートレットが横から叱咤する。
「しっかりしろライラ。この程度で気圧されるんじゃない」
「う、うん……」
意を決した様子でライラが席につく。バートレットはすかさず隣の席を陣取ったが、ファビオは何も言わなかった。
そこへ、扉が開いてジェイクが入ってきた。
「お、来てるな二人とも」
「ジェイク、お久しぶりです」
バートレットが立ち上がって挨拶したのに合わせて、ライラも椅子から立った。
船医は苦笑いしながら二人に手振りで座るように促す。
「いいって、堅苦しいのは。こちとら神父様の相手ばっかりで肩が凝っちまってな」
それを受けて、二人は再び席につく。ジェイクはライラの向かい側の席につくと、片眼鏡の奥から彼女を見据えた。
「それに聞いたぞ、ライラ。お前さんを追っかけ回してる男が船に来てるんだって?」
「そうらしい。皆にはいつも面倒を掛けてしまうけど……」
ライラは身を小さくして俯いた。ジェイクはそれを軽く笑い飛ばした。
「今更そんな水臭いこと言うなって。ここまではさすがに来ないだろうから、お前たちも一息つきな。なに、面倒事はルースに任しときゃいいのさ」
果実酒を注いだ杯を横から手渡しながら、ファビオがライラの瞳を覗き込んでくる。
「セニョリータ。たとえそんな不届き者がここに来たって、俺が追い返してやるから安心するといい」
ちっ、とバートレットが舌打ちをするが、ファビオは聞こえないふりをしてライラに甘い微笑みを向ける。
それを眺めていたジェイクは、呆れたように言った。
「お前の出番は恐らくねえよ、ファビオ。ったく、唯一の華だったディアナがいなくなっちまったからって、女に飢え過ぎだろ」
「人聞きの悪い。春をひさぐ商売女が船に来たってこうはならねえ、見ろよ先生。こんな天使が目の前に現れたんだぞ。荒野に咲いた一輪の薔薇さ、そりゃあ張り切るだろ。ここにいるどの男より、一秒でも長くこの俺を見てもらうためにな」
「……お前の女に関する情熱だけは毎度すごいと思うね、俺は」
はあ、と演技掛かった溜め息をつくジェイクに、バートレットが尋ねた。
「ディ……セニョーラ・モレーノは、まだ戻っていないんですか? エスプランドルに動きがあったと聞きましたが」
「正確に言えば『動かない』んだよ」
と、いささか疲れた声でジェイクが言う。
「エスプランドル本国は人魚号を見捨てなさるそうだ。ぼんやりしてたらこの船の連中は全員収監されて、捕虜交換の日が来るのを延々と待つか、運が悪きゃ奴隷市場行き。そいつを避けるためにわざわざルースが対策会議の場を設けて、踏ん切りがつかなかったディアナがそのまま居残り、ってわけだ」
「そう、だったんですか」
ディアナとルシアスが船長室に籠っていた理由を聞かされて、バートレットは気の抜けたような返事をした。
全員の果実酒を配り終わったファビオがジェイクの右隣の席につき、脚長の杯を持ち上げて乾杯の手振りをすると、早速口に運ぶ。
「俺だって腹が決まったわけじゃなかったが、神父様は病床、フェルミンは檻の中とくれば、ここで指揮取れる奴がいないからな。一足先に戻ってきた」
「でも結局飲むんだろ、ルースの提案を」
ジェイクに水を向けられ、ファビオは皮肉っぽい笑みを返す。
「そりゃな。さすがは大海賊、寛容も寛容、大盤振る舞いだよ。この状況では涙が出るほど有り難い申し出だが……まあ、ディアナはこの船に思い入れがあるからな」
ぐい、と杯を煽ったファビオは、どことなく寂しそうな目をしていた。
バートレットはジェイクに更に尋ねる。
「頭領はどんな提案を?」
「シュライバーにここの乗組員を雇わせるんだとよ。ルースのやつ、この手の根回しは妙に早い。たった半日で話まとめてきやがった」
「ああ、なるほど……確かに、その餌ならあの男は食いつくでしょうね」
感心したようにバートレットが呟く。その表情には、ルシアスへの尊敬の念がはっきりと窺えた。
ライラは遠慮がちに横から聞いてみた。
「どういうこと?」
「え? ああ、そうだな」
バートレットは物思いに耽りかけ、傍らのライラを一瞬忘れてしまっていたような反応を返した。
陸者にもわかるように説明しようと、彼は数瞬考えてから彼女に答えた。
「シュライバーは、出来ることなら自前の武装商船を持ちたがってた。東方への海洋貿易は現状国が独占してるが、ヤースツストランドは未だに香辛料に拘って他国に出遅れてる。その隙をどうにかしてつくつもりなんだろう」
「なんだか危なっかしい話だな」
ライラの呟きに、バートレットはふっと笑みを零した。
海賊としては法に触れようが触れまいが、誰かの隙をついて利益をあげるのが本領なのだ。
彼は説明を続ける。
「船乗りっていうのはどの国でも人材不足だが、危険を顧みず航海を成功させるだけの経験ある水夫となると、金を積んだって集まるものじゃない。そこに頭領は、エスプランドルの大型帆船乗り──それも元海賊の連中をひとまとめにして、シュライバーの鼻先に吊るしたというわけだ」
「なるほど……でもそうしたら、ルースは人魚号の皆をシュライバーに売ったのか?」
ライラの疑問を引き受けたのは、斜め向かいに座ったファビオだった。
「そこは懐の広いクラウン=ルースさ、セニョリータ」
ライラが視線で問いかけると、彼は彼女をまっすぐ見つめて微笑んだ。
まるで睦言でも語りだしそうな笑みだったが、その目の奥に甘さなどないことをライラも気づいている。
「奴隷として売り払う方が楽なのに、わざわざ斡旋の形を取った。乗組員の給料の一部を徴収するんだと。エスプランドル人捕虜の身代金が大体二百ギルダーちょっと、その金額に届くまで、毎月十六ギルダーの中から三ギルダーずつ」
「六年かけて自分自身を買うってことか」
ライラの呟きに、ファビオは再び果実酒の杯を傾けて答える。
「はっきり期限をつけりゃ逃亡防止にもなって、船主としても保険になる。そもそも給料を未払いで踏み倒す船も珍しくないのに、徴収が終わったら各自で雇用継続かどうかも決められるし、水夫にとっちゃ好条件だよ。とっとと船が沈まない限りルースに損もない」
しかし問題は、と彼は続ける。
苦い吐息がその唇から漏れた。
「この船を手放さなきゃならんのさ」